日本人は早く仏教に由って「無常迅速の世の中」と教えられ、 儒教に由って「日に新たにしてまた日に新たなり」ということを学びながら、 それを小乗的悲観の意味にばかり解釈して来たために、 「万法流転」が人生の「常住の相」であるという大乗的楽観に立つことが出来ず、 現代に入って、舶載の学問芸術のお蔭で「流動進化」の思想と触れるに到っても、 動《やや》もすれば、新しい現代の生活を呪詛《じゅそ》して、 黴《かび》の生えた因習思想を維持しようとする人たちを見受けます。 たとえていうなら、その人たちは後ろばかりを見ている人たちで、...
愛する人達
ばうばうとした野原に立つて口笛をふいてみてももう永遠に空想の娘らは来やしない。なみだによごれためるとんのずぼんをはいて私は日傭人のやうに歩いてゐる。ああもう希望もない 名誉もない 未来もない。さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが野鼠のやうに走つて行つた。 萩原朔太郎といふ詩人は、もうすでに此世にはないけれども、此様な詩が残つてゐる。 専造は、大学のなかの、銀杏並木の下をゆつくりと歩きながら、 この詩人の「宿命」といふ本の頁をめくつてゐた。 約束の時間を十分も過ぎたが、五郎の姿はみえない。繁つた、銀杏の大樹はまるで緑のトンネル。...
亜米利加の思出
皆様も御存じの通り私は若い時|亜米利加《アメリカ》に居たことはありますが、 何しろ幾十年もむかしの事ですから、その時分の話をしてみたところで、 今の世には何の用にもなりますまい。米国がいかほど自由民主の国だからと云ってその国に行って見れば義憤に堪えないことは随分ありました。社会の動勢は輿論《よろん》によって決定される事になって居ますが、 その輿論には婦人の意見も加っているのですから大抵平凡浅薄で我々には堪えられなかった事も少くはありませんでした。...